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彼の国家主義的立場

彼の国家主義的立場はこの大戦の経験により、より強固なものになった。彼はイタリア国内で広く政治運動を行い、イタリアが大戦中に得たヨーロッパの一等国としての役目を戦後も果たしていくべきだと主張した。パリ講和会議で、フィウーメ(いわゆる未回収のイタリアの一部。現クロアチア領のリエカ)をセルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国(後のユーゴスラビア)に割譲すべしとの結論が出されたことに激怒したダンヌンツィオは、1919年9月12日、黒シャツ隊と称されるイタリア人武装集団を率いて市を占拠、アメリカ、イギリス、フランス3軍から組織された守備軍を追放した。この時のダンヌンツィオのスローガンが「全ての抑圧された人々の解放」であり、十月革命を支持するというものだった。この行動からダヌンツィオはウラジミール・レーニンに「革命家」として絶賛される。彼らは、イタリアによるフィウーメ併合を要求、これはイタリアの悲願でもあったが、国際関係の悪化を懸念してイタリア政府は国境線を封鎖、武装組織の投降を促した。そこでダンヌンツィオはフィウーメの独立を宣言。首班に革命的サンディカリストのアルチェステ・デ・アンブリスを任じ、デ・アンブリスによって後のイタリア本国のファシスト国家機構の先駆となるカルナロ憲章が発布された。例えばダンヌンツィオは自らをDuce(ドゥーチェ。統領、または総統)と称していた。更に彼は国際連盟に対抗する組織を計画、被抑圧民族(例えばフィウーメのイタリア人、バルカン半島のスラブ人民族分離主義者など)を糾合することを構想したが、これは失敗した。彼は1920年のイタリアとセルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国間のラパッロ条約(1922年の独ソ間の条約と異なるので注意)を無視し、イタリア本国にまで宣戦布告したが、イタリア海軍による艦砲射撃を受け、1920年12月に投降した。

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フィウーメ占拠事件後のダンヌンツィオはガルダ湖畔の自宅に隠退し、著作活動を行った。彼はムッソリーニに多大の影響を与えたのは事実だが、彼自身は後のファシスト政権に直接関与したことはなかった。1937年にはイタリアの王室アカデミーの総裁に就任、1938年3月1日、自宅で脳卒中により死去。ムッソリーニにより国葬された。

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2009年04月28日 07:04に投稿されたエントリーのページです。

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